『薩摩斑目家』の歴史
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102三木 そうでしょう。泰基が薩摩に来て初めて、斑目家がそこに住み始めたということでしょう。そうじゃない見方が、あるんですか? ―それにしても、渋谷家は宝治合戦(1247年)で勝った側、北条氏の勝利に大きな貢献をした家です。これに対し、斑目家は負けた側、滅ぼされた家です。なぜ勝った側から負けた側へ養子に入ったんでしょうね。三木 そう、一般的にはないパターン。当時でも非常に珍しいケースですね。その理由として考えられるのは、斑目家の家名を利用しようというのがあるでしょう。それから、名家の名跡を大事にしたいという気は、いまの人が信じられないぐらいに強いですから、勝ち負けを超えてぜひ、この名家を再興したいといった意味があったかもしれません。ただ、その時期、鎌倉幕府の権勢はまだ強い。そんなことして、負けた側にくっついて、マイナスになる面の方が強いんですけどね︙︙。 ―ところで、斑目四郎が活躍し、橘元長も「出羽国斑目の地頭」をしていたという、

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