『薩摩斑目家』の歴史
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111五★出水麓の斑目氏た。麓の周囲には、十ヶ所に郷士を分散して屯田させ、これを十ヶ外城(のち八ヶ外城)と呼んでいた。出水郷には、郷士が約2300人いたが、うち1400人余が麓に住み、残る800人余は八ヶ外城に集落をつくって屯田していた。出水郷は肥後国との国境最前線であるため、有能な武士が数多く配置され、知行は他郷よりも厚遇された。郷の最高権力者である地頭には代々、家老級の人材が任命された。特に第三代地頭の山田昌巌は、征韓の役や関ヶ原戦に従軍した歴戦の英傑として知られた。彼に淵源を持つ「出水兵児掟」は日本最強の軍団「出水兵児」を作り上げる大きな要因となった。昌巌は地頭として、「愛民」「勤倹尚武」を躬行実践し、尚武の気風の鼓舞につとめた。昌巌時代の出水麓には、彼を慕って他の外城から多くの豪勇の士が移ってきたという。麓に生きる郷士たちに対し、城下士たちは当初、特に差別の感情は持っていなかったが、次第に「郷士」と呼ぶ口調に賤称の響きを加えるようになる。あげく、郷士を「一日兵児
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