『薩摩斑目家』の歴史
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1161石以上」175戸の3倍の多さである。出水麓は、当時はまださほど全体として困窮した状況ではなかったかもしれない。この頃、斑目氏は出水麓に2戸あり、本家の藤左ヱ門尉の家が70石、善兵ヱ尉の家が5石。藤左ヱ門尉は2番高帳で上位24番目に記載されており、少なくとも十七世紀初めの時点では、かなり豊かに暮らしていたと見られる。家族以外にも、武士である以上は戦に備えて郎党を抱えていなければならず、10人近くがいたと推測される。善兵ヱ尉はといえば、元々33石だったものがなぜか5石へと急に激減している。この時代の高帳にはそれ以上の添え書きがなく、理由は不明だ。それから8年後。元和六年(1620年)の「薩州出水衆中軍役高帳3番」では、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣・夏の陣の影響か、全体的に石高が激減している。100石以上が「2番」では13戸いたが、「3番」では4戸になってしまっている。その趨勢のままに、藤左ヱ門尉も17石に激減、善兵衛尉にいたっては1石7斗と困窮生活へと転落している。一般的に、大人一人が一日三食を一年間食べていく量が1石と言われる。

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