『薩摩斑目家』の歴史
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119五★出水麓の斑目氏そして、21年後の萬治元年(1658年)の「8番」では、斑目氏は依然として2戸。本家の藤左衛門は「一ヶ所」のどん底の安定、善兵衛は「平松衆中」のままで「1石2斗」へと転落し、極めて厳しい生活を余儀なくされている。それから半世紀の間、軍役高帳はない。第5代将軍綱吉が死んで翌年の宝永七年(1710年)の「28番」では、やはり藤左ヱ門が「一ヶ所」のまま。初めて名前が登場した「2番」からは100年近くが経っているので、この藤左ヱ門は子か孫だと思われる。高帳の表記内容も詳しくなっており、嫡子の藤右ヱ門、次男の六郎、孫の六右ヱ門、千五郎、千七たちの名前が記してある。しかし、軍役高帳の目的があくまで「兵力」の管理であるため、妻や女子の名は一切ない。そしてもう一戸、「平松衆中」にいた善兵衛の家系になるのだろう、仲左ヱ門が「麓」に復帰し、7石4斗を得ている。そのうち9斗4升が寛文六年(1666年)に、9斗5升が宝永四年(1707年)に、それぞれ自作自収するため新たに開発した「仕明持留」の土地だと書いてある。嫡子として四郎右ヱ門、弟として甚六の名がある。
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