『薩摩斑目家』の歴史
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122や、又仲間同志による弓・鉄砲争いを計画し、日常生活の合間にも個人として鍛錬している。一方、家族の生活安定のために、作職の下人の先頭に立ち、朝早くから日の沈むまで、農作業の為に東奔西走し、特に茶取りに就いては、其家の家伝でもあるのか、自ら窯場の造りから仕上げまで、自分でやっている。晩は隣近所の郷士で話し合い、会講式夜を設け、互いの家に集まり、論語や中庸等を読み合いも行っている。まさに、一日は武士の本分の為に武技の修練に励み、一日は生活のために農作業に従事している姿は、『一日置き』の生活様式である。『一日郷士』と皮肉られても我慢して、修練した甲斐があって、やがて、戊辰の役には薩摩最強軍団として、陰ながらではあるが、花が咲いたのである」赤穂浪士の「忠臣蔵」事件が起きた元禄十五年(1702年)から2年後。貧しいながらも武士の意地を立てなければならなかった、出水郷士の境遇を象徴する事件が起きた。全国的に不作が続く中、「出水版曽我兄弟」と呼ばれた「南兄弟の仇討ち」である。南家の石高、わずか1石9斗3升。田畑は約1反にすぎず、貧しすぎる武士の生活の中で起きた軋轢が、刃傷沙汰の発端となった。麓仲間である南家当主・覚兵衛と児玉仲左衛

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