『薩摩斑目家』の歴史
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127五★出水麓の斑目氏8戸から返済物として、数斗ずつの土地が入ってきているのがやけに目立つ。話が前後するようだが、23年前に「無屋敷」からスタートした六郎は、1石5升の高持士へと身分を上げているが、困窮極まる生活に違いはない。老中の田沼意次が積極的な経済政策を展開し、物価が騰貴する一方で、賄賂政治が世に横行した。そんな田沼時代の最中、太平洋の向こうでは米国が独立した安永五年(1776年)。「49番」では、前回高帳から30年余り経っていることから、斑目氏の3戸すべてで戸主の代替わりが進んだ。本家では六右衛門を藤左衛門が継ぎ、3石3斗となって、やっと微増。仲左衛門の家では平次郎が新たな戸主となり、戸主の力量の差なのか、こちらは17石へと半減してしまっている。六郎の家では藤八が戸主となり、1石2斗へと微増。植民地化の危機が迫り始めた天保十一年(1840年)。「78番」では、藤左衛門を十蔵が継ぎ、2石8斗。依然困窮状態が続いているが、ここに他家から猪之助が養子に入って来ている。この猪之助こそが、力曠さんの父日仏氏の祖父にあたる人物。つまり、十七世
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