『薩摩斑目家』の歴史
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131六★「戊辰」「西南」の斑目氏「出水兵児」の活躍は目覚ましかった。だが、戦後の賞典下賜には城下士と差別されたものがあった。このため、出水郷士たちは明治新政府の大山綱良県令あてに、善処を求める嘆願書を繰り返し提出。その結果、清左衛門も明治七年、三等対象の33人の一人として「米4石ずつ、天保30ずつ」の授与を勝ち取った。しかし、この決定に対しても、出水郷士は得心し切れず、またも嘆願書を提出。明治十一年四月になって、やっと決着にいたり、清左衛門ら五人は「戊辰之役、兵役之節、外城四番隊にて出立、二等軍功賞典禄6石。明治元年正月、伏見より八幡へ進軍、同年四月京都出立、北陸道へ進軍、越中富山藩にて病気相煩、養生御暇被仰付、同年七月帰藩。右之通、相違無御座候也」と、「三等・4石」から「二等・6石」に格上げとなっている。一方、西南戦争では戊辰と異なり、出水郷士の動向には複雑なものがあった。出水には、西南戦争の原動力となった「私学校」の分校があった。このため、郷士の多くが脅迫的な煽動を受けて西郷軍に加わったが、批判的な者もかなりいた。「鹿児島日誌」によれば、「当麓の士族は都合五百名余の処、十中九分九厘迄は賊徒の脅迫を受け、一旦出軍致居候処、過日来追々帰順願出候︙︙とあるように、戊辰戦争ではさしもに勇敢であった出水衆

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