『薩摩斑目家』の歴史
134/189
132中も、矢筈山系や出水麓など約一ヵ月の抵抗をしたのみで、戦意が強かったとは言えない」と。この日本史上最後の内戦には、斑目氏から少なくとも亀太郎と仲左衛門の二人が出陣していた。ともあれ、明治十年二月十二日、出水隊の出発の日。向かうは集合地の鹿児島。夜明け前、大雪が降りしきるなか、合図の早鐘が鳴り渡った。出軍希望者260余名は神仏に祈り、それぞれの出で立ちで、家族に見送られて家を出る。白一色の積雪を踏みしめながら、一寸刻みの進軍をかさね︙︙。そして、あの田原坂の戦い。十七昼夜にわたる戦闘で、官軍が発射した小銃弾は一日平均32万発、大砲は1千発。丘陵や谷間は両軍の血で染まり、死体は累々と横たわった。この決戦の舞台で、官軍は、薩摩憎しの記憶に猛る会津や奥羽の出身者たちで抜刀隊を組織。彼らは「戊辰のかたき、戊辰の復讐」と口走りつつ切り込んできたという。その切り込んで来た側に「会津の斑目氏」がいておかしくない。切り込まれた側に「出水の斑目氏」がいた可能性はある。もし、それが田原坂の戦いの現実だったとしたら、なんとも歴史のい
元のページ