『薩摩斑目家』の歴史
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140るように思います。恐らく、地頭館の裏手辺りに住んでいる人たちは、多くが薩州家出身なんですよ。薩州家なんだけど、お前たちはここに住み続けていいぞと、言われたような感じがするんです。 ―斑目氏は江戸時代になる前に、薩州家の家来となっていたと推測する理由。それを、さらに問えば(笑)。肱岡 直接の証拠はない。でも、祁答院家が滅んだ時の状況を見ると、斑目氏は江戸時代の薩摩藩の体制がきちっと敷かれてから、島津宗家の家来として移ってきたとは、どうも考えにくい。出水は江戸時代以前にやって来た人が多いように、斑目氏がここに来たのは、いろんな人が流れこんでくる時代のころだろうなあと感じるわけですよ。祁答院末期に藺いむた牟田城主だった斑目氏の滅亡をめぐり、出水に逃げたとかいろいろ言われているわけですが、いずれにしろ江戸時代の話ではない。祁答院におれたのなら、おった方がよかったのでしょうけど、それができなくなったということでしょうね。

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