『薩摩斑目家』の歴史
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141七★出水市歴史民俗資料館副総括責任者・肱岡隆夫氏インタビュー ―さて、「神は細部に宿る」ということで、細かな話を聞かせていただきます(笑)。これは公開されている軍役高帳11冊(1612年~1867年)から斑目氏の情報だけをピックアップした一覧表です(114ページ掲載)。これを見た印象は。肱岡 まずは、最初の慶長十七年(1612年)の高帳から次の元和六年(1620年)の高帳になって、斑目本家の藤左ヱ門尉の70石が17石へと、石高が激減しているでしょう。これは、元和五年という年が一つのポイントになっていて、薩摩藩で上知令が出された年なんです。実は薩摩藩というのは関ヶ原の戦い以降、大坂冬の陣とか夏の陣とかやるうちに、財政が逼迫してしまった。だから、100石以下の者は三分の二を上知せいと。上知というのは返せということです。今の公務員の給料カットと一緒です。そのために、斑目氏の石高が激減しているわけです。 ―寛永十四年(1637年)から宝永七年(1710年)までの70年余りの間、本家筋である斑目藤左ヱ門が、なんと「一ヶ所」という待遇になっています。なんですか、これ。
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