『薩摩斑目家』の歴史
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144 ―「一ヶ所」の本家に「無屋敷」の分家。こりゃあたいへんですね。どうやって生計を成り立たせていたんでしょう。肱岡 鹿児島というのはよそとは違いましてね、幸か不幸か、貨幣経済がほとんど浸透していない。食べるものから、飲むもの、着るもの、使うものまで、自分たちで作るわけですよ。例えば、武家屋敷に必ずあるものの一つが機織り機、自分の家に機織り機が置いてある。つまり、奥さんたちは蚕を飼って、繭を作って、機を織る。これはもうどんな家でも、奥さんたちの絶対的な仕事。それから、出水の武家屋敷の特徴は、屋敷裏に必ず畑があることです。だから石高の対象となる田んぼ以外に、みんな畑を持っていて、そこで野菜を作っている。そんなので暮らしていかないとしょうがないわけです。 ―ということは、藤左ヱ門の家にも機織り機と畑があった?肱岡 当然、あったでしょう。私の先祖のところでも、庭には蚕の餌になる桑の木があって、ばあさんたちが蚕を飼っていた。そういうふうにして侍の着物にしろ、子どもの着物
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