『薩摩斑目家』の歴史
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19弐★背景としての「祁答院」「薩摩」といえば、今のわれわれには、明治維新の原動力となった「薩摩藩」のイメージが強い。そのイメージのままに、つい中世薩摩を同様のものとして想像しがちである。しかし、これが全く違う。政権の様相を比べて見ても、「薩摩藩」は、島津家が現在の鹿児島市に鶴丸城を置いて集権的に藩全体を統治し切った。これに対し、中世薩摩の国府は現在の川内市域(高たき城)にあった。島津氏の実情は、薩摩国トップの守護だといっても、長きにわたって「実際には地方武士のなかの最有力者にすぎなかった。多くの者は島津から独立しており、一部の者は機会をとらえて立ち上がり、島津と争おうとしていた」(「新薩摩学~中世薩摩の雄 渋谷氏」)というものだった。この南九州の地には、島津氏と覇を争う一族が幾つもあった。その一つが、やがて「薩摩斑目家」と縁戚関係になる渋谷氏。現在の東京・渋谷に本拠を構え、薩摩に下向してきた一族である。☆「虎居城物語」でタイムスリップ
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