『薩摩斑目家』の歴史
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22れ、九月十月頃は黄金色の波がうねるほどに開発されていた。薩摩国でも律令制の末期、荘園の発達に伴って、国司の地位が揺らぎ、武士団が発生した。強い者が勝ちの風潮である。土地をめぐって「地主」という概念はなく、土地は開発すれば、みな我が物となった。十二世紀末、源頼朝が鎌倉幕府を開き、薩摩国には鎌倉御家人の千葉介常胤が、高城・東郷・入いりきいん来院・祁答院の没官御領に、地頭として入部してきた。天下がひっくり返ったことで制度によるコントロールが利かず、荒ぶり混乱する変動期のありさまを、「川内市史」の記述にのぞいてみる。「千葉氏の代官宇紀太清遠が新恩地頭として下向してきた。この清遠の悪代官ぶりは、遠く頼朝の耳にも入ったようで、この悪代官の取り締まり方を命じた頼朝の下文があるが、文意は以下の通りである。≲千葉介常胤を寄郡五箇郡の郡司職に補しているが、代官宇紀太清遠はみだりに庄家に乱入し、種々の非道狼藉をなし、ために土民等は安堵しない
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