『薩摩斑目家』の歴史
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25弐★背景としての「祁答院」の多くは実際に遠方の領地に赴任することはなかったが、光重は1248年、次男以下の5人を、守護・島津氏の管轄する薩摩国に移住させた。島津家は、初代忠久が十二世紀末、薩摩・大隅・日向三国の守護に就いたが、比企能員の変に連座して大隅・日向を剥奪され、薩摩一国の守護職となった。やがて戦国大名へと発展し、九州のほぼ全土を制圧したが、一門内で奥州家と総州家の確執など内紛を繰り返した。渋谷五兄弟はこの島津氏と戦いを続け、ある時には島津氏の一部に与し、また割れるなど、目まぐるしく敵味方を入れ替えた。一族内で鶴田氏と他四氏が戦ったこともある。薩摩の渋谷一族(「新薩摩学~中世薩摩の雄 渋谷氏」から)氏族名図田帳の田積東郷別府43町初入部地本城年時東郷氏車内鶴ケ岡城→1569年祁答院112町祁答院氏柏原祁答院下城→1566年祁答院之内鶴田氏佐志鶴田城→1401年入来院75町入来院氏倉野清色城→1569年・1613年→高城郡160町高城氏 *年時は各氏が所領を維持した最終年時。入来院氏は藩政下で回復し、廃藩まで継続。(1286年鎮西談義所奉行)大川高城→1422年

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