『薩摩斑目家』の歴史
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46以広は鎌倉幕府草創期、源頼朝に仕え、屋島・壇ノ浦の一大決戦に向けた鶴岡八幡宮での祈祷行事の責任者を務め、源範頼、大江広元、島津忠久とも同格の序列にいた。惟広は、源実朝の時代、鶴岡八幡宮の神宮寺が落成した時の責任者を務め、「前駆」という高い序列にあった。「薩摩斑目家」の源流にある、誇らしき父子の存在。彼らこそが始祖であるという「橘姓斑目氏系図」の主張は、そのまま事実と見ていいのだろうか?(栗林文夫氏)「いいんじゃないでしょうか。本姓の橘氏としての系図の中で一応形としては整っているし、他の史料にも出てきますから」(佐藤真人氏)「事実でしょうね。もちろん、吾妻鏡の情報を後付けで添え書きするという可能性はなくはないが、それを疑わせる史料があるわけじゃありませんから」ところで、この以広をめぐっては、添え書きの中に一つの謎が書き込まれている。政所
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