『薩摩斑目家』の歴史
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47参★祁答院の斑目家衆に就任したのは、鎌倉幕府が成立した建久三年(1192年)の八月のこと。なのに、わずか三カ月後に辞任しているのだ。今風に読めば、こんなにおいしいポストを自分から手放すはずがない、重大なスキャンダルが彼を襲ったはずだと、想像される。それは、いったい何だったのか。時代は大荒れに、荒れている。源頼朝が武家政権を革命的に打ち立てたのに続き、建仁三年(1203年)には第二代将軍頼家の外戚として権勢を誇った比企能員が、北条氏の謀略に滅ぼされる。最高権力の座をめぐる攻防は鎮まることなく、健保七年(1219年)には第三代将軍・源実朝が甥の公暁に殺され、源氏将軍家は断絶。京都の公家政権を率いる後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げて敗れたのは、その二年後のことだ。以広の「三カ月の異変」は、そうした奔流の源流にあった、前触れの事件だったのではないか。(栗林文夫氏)「うーん、これだけではちょっと分かりませんねえ。だけど、源頼朝だって、征夷大将軍とか右大臣とかを、数カ月でパッと辞任しています。当時、そういう役職に就いたからといって、必ずしもずっと居座るわけではないんで、なんらかの政治的な目的があれば辞めるだろうし、個人的な過失というのもありえます」
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