『薩摩斑目家』の歴史
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50要するに、「吾妻鏡」に二人が登場した時点で、「斑目」姓を名乗り名として持っていたのかどうか。言い換えれば、前九年の英雄、斑目四郎が以広、惟広の先祖としてつながるのかどうか、という問題なのだ。(栗林文夫氏)「惟広の子孫の代になって初めて斑目郷の地頭の職をもらい、そのことによって斑目を名乗るようになったのであれば、以広や惟広が斑目と名乗るはずもない。ただ、百数十年も前に斑目四郎という人物が存在していたのだから、四郎から斑目姓がずっと続いていて、その子孫として以広や惟広につながっているのであれば、二人も斑目と名乗るはず。だけど、名乗っていない。それを見ると、斑目四郎と二人は、あるいは別の流れということなのかもしれない」これに対し、文雄氏は「先祖探しの旅―班目氏一三〇〇年史」の中で、「(鎌倉幕府の草創期)田舎者といってもよい武士たちは、政治や経済のノウハウをほとんど知らなかった。そこで京都育ちで、政治上の慣習や細部に詳しい大江広元たちの智慧を借りて行政や司法を始めた。これらの下級公卿出身で幕府の要職に就いた人々は、有職故実というよう
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