『薩摩斑目家』の歴史
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60つまり「橘元長」とは、惟廣が改名した後の名だったのである。むろん、学問の立場から言えば、この家系図が本物かどうか、検証なしには何とも明言できない。五味氏も当然、そのスタンスだが、それでも「全体的な見た目の印象では、この家系図に特に変な怪しいといった感じはありませんからね」と、一応の信憑性を感じているようだ。五味氏が「斑目家文書」の代表的な論文「薩摩国祁答院一分地頭斑目氏について」を書いたのは、もう半世紀近く前のこと。その後年になって、地元の郷土史家か誰かからこの写真をもらったらしい。他の研究や雑事に追われるうち、その存在をすっかり忘れていた。幕府中枢と出羽国と薩摩国を結ぶ「後改元長」という画期的な情報は、この間、静かに眠り続けていたのだ。子孫の思いで言えば、学問の方法論はそれはそれとして、800年前に出羽国斑目で地

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