『薩摩斑目家』の歴史
63/189

61参★祁答院の斑目家頭をしていた「橘元長」という先祖が間違いなくいたことになる。しかも、その人物は「吾妻鏡」で身元保証された、れっきとした鎌倉幕府の元高官だ。中央政府の元高官が地方の一地頭になるというのは、現代の感覚で考えれば少々違和感があるかもしれないが、鎌倉時代であれば、不思議なことでも何でもないらしい。惟広の二男惟基が、出羽国で地頭をしていて、宝治合戦の余波を受け、薩摩に流れていったという「惟基薩摩入り」の脈絡も、より自然な筋道立ったものに見えてくる。さらに言えば、この五味氏が見せてくれた家系図にはもう一つ、初めて明らかになる、意外な斑目家の動向が記録されていた。以広の子の惟広に國広という弟がいて、なんと美濃国に行って地頭になっているのだ。斑目氏が美濃国に下向していたというのは、全く初めての情報である。文雄氏が著書の末尾でまとめてくれている「全国班目・斑目氏一覧」では、東日本斑目氏と薩摩斑目氏以外に、実は一軒だけポツンと愛知県美和町(当時)に「斑目修吾」さんがいる。愛知県のすぐ北が「美濃国」であり、修吾さんは「美濃斑目氏」の流れということなのか︙︙。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です