『薩摩斑目家』の歴史
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68て付いてきた」といった伝承がけっこうある。だが、どれも後世の地誌類にそう書かれているだけで、忠久本人の薩摩での痕跡自体もほとんど皆無という状況だ。だから、「忠久は実際には来ていない」というのが、もはや定説になっている。従って、「斑目某」は考えにくい。(栗林文夫氏)「忠久が薩摩に来たと書いているものは、江戸時代以降に書かれた系図とか家譜とか地誌ばかり。生の史料とか古文書とかがほとんど見つかっていない。しかも、江戸時代以降という時期の意味するところを考えると、島津家が自分たちの先祖は源氏から来ているという話を作り出していった時期に重なるんです。だから、その意図に合わせて島津忠久の話も作られていったのだろうと、解釈されています」②の以広入部説はどうか。文雄氏も著書で「斑目六郎橘以広入道聖恵が頼朝の子島津忠久を警固して薩摩に向かったのは、︙︙建永元年(1206年)のことである。斑目六郎は出羽の郡司であったという」といったん書いている。
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