『薩摩斑目家』の歴史
75/189
73参★祁答院の斑目家そんな呪われた斑目家に、泰基は名門渋谷家の御曹司でありながら、なぜわざわざ養子として入って来たのか。しかも渋谷家は単なる名門という以上に、宝治合戦では勝者の側の勲功者として代表的な家柄なのだ。泰基がいつ薩摩に来たかを問う前に、その疑問を先ずは解いておこう。(栗林文夫氏)「よくあることですよ。例えば、毛利元就の子供たちが小早川とか吉川の養子に入ったことには、その家を支配下に入れるという意味合いがある。泰基の養子入りも、渋谷家が斑目家を支配下に置きたいという意図があったんでしょう。あるいは逆に、斑目家側から見ると、渋谷家から養子に入ってもらって、自分たちが生き延びるといった意味合いもあったかもしれない」薩摩渋谷家の祖とも言える光重が、宝治合戦の勲功の恩賞として北薩に所領を与えられ、五人の息子を名代として送り込んだ。その頃、まだ一帯には薩摩国の国司だった大前氏の一族が勢力を維持し、所領を広げていた。渋谷一族が、いくら鎌倉幕府発令の「地頭」
元のページ