『薩摩斑目家』の歴史
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77参★祁答院の斑目家どころか、斑目の人間自体がいたかどうかも分からない。斑目家に養子に入る直前のタイミングになっても分からない。とにかく薩摩斑目家というのは足跡が全然見えないんですよ。何か古い文書が出てくれば別ですけど、斑目家文書の中では、正応元年(1288年)の文書が一番古いですよね。泰基に、渋谷家の兄重松が祁答院の土地を譲るという史料です。もう十三世紀の終わり近くになって、初めて薩摩の国に斑目の名前が登場してくるわけです。斑目家に伝わる文書の中で、薩摩に関わるものとしては、それが一番古く、あとはポーンと文書第一番の建永元年(1206年)にまで遡った「出羽国地頭職補任」の文書が一個出てくるだけです」歴史学的に考察すれば、こういう状況である。しかし、この小冊子はとりあえず「まだらめ会」のためのものである。こうなると、薩摩の土地に最初に足を踏み入れた斑目人として、一番納まりがいいのは、惟基であるような感じがするが︙︙。子孫の方々は四択のうち、どれを選ぶだろうか。
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