『薩摩斑目家』の歴史
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81参★祁答院の斑目家部を水田化する技術を、こちらに持ち込んでいた。調べてみると、水田化されていなかった場所に、以前とは異質な新しい技術が入っているところがある。そこには必ず鎮守が置かれ、基幹水路が引かれていたり、あるいは排水の工夫がされていたり。関東は荒川などの暴れ川の氾濫が非常に激しく、そうした困難多き土地の開発で培われた技術や風習じゃないかと考えられています。もちろん武士自身が身に付けた技術ではなく、下人や領民が持っていた技術です。そうした人々を、下向の時に一緒に連れてきたのだと思います」中世、なかんずく鎌倉初期は、法や制度といった約束事で事が収まるような時代ではない。実力行使がなによりも物を言う。とりわけ未知の土地への下向は、いくら「地頭」という大義と権力を持っているとはいえ、それだけでは誰も言うことを聞かず、自衛力を含めて自分たちで何もかもを行わなければならない。だから、いざ戦わねばならぬという時の軍団とするためにも、土地を開発して拡大していくためにも、また日常の生活を送っていくためにも、さまざまな技能を持った人間が必要だった。このため、当時の地頭の下向は家族だけでなく、あたかもミニ民族移動であるかのように、東国人が一団となって移住した。一人の地頭の下向は500人もの一団になったと言われ、渋谷五兄弟の薩摩下向に
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