『薩摩斑目家』の歴史
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84らの推測により筆者は前者を性観、即ち入来院氏二代明重の子、平三郎重高と考え、後者を聖(性)蓮即ち祁答院渋谷氏二代重尚の子、兄重松(行蓮)の弟で斑目家を相続した泰基と考える」と苦吟しているぐらいだ。泰基の、主家たる渋谷家側の「観聖」に対する物言いを見る限り、斑目家の独立性がある程度保たれているということがうかがえる。まあ、これはまだ、泰基が健在だったからかもしれない。当時は、博多に鎮西探題という裁判機関があった。だから、二人はたぶん博多まで出かけて主張をぶつけ合っただろう。事前の手続きとして、それぞれ弁明書も出し合っていたはずだ。「蓮性陳状案」は、泰基による陳状だから、泰基が訴えられた者として反論をしているわけだ。判決文が残っていないから、結果がどうなったかは分からないが、五味氏は半世紀近く前に発表した論文でこう書いている。「蓮性退出とあれば、裁判における蓮性の敗色は濃いようだが結果が如何であったかは

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