『薩摩斑目家』の歴史
96/189
94は伝承がかなり残っているんですが、全員事実だったと思います。本人が薩摩に、実際にやって来たかどうかは別にして。 ―以広は、鎌倉幕府における序列が、源範頼、大江広元、島津忠久らと同格だったと言われています。ぶっちゃけ、どのくらいエラい男だったのでしょうか。三木 実は、序列というのは、なかなか難しいものがあるんですよ(笑)。鎌倉幕府成立期には、権力者たちにとっては、朝廷の官位が一番大事なんです。頼朝なんてのは、天下の将軍でありながら、朝廷の序列では普通の官吏ですから。みんな、そういう目で見ている。で、以広は、その頼朝の御家人にすぎない。御家人の数は、たぶん千人の前後もいます。みなせいぜい正五位とか六位で、正三位以上の者は一人もいません。しかも、幕府の政治はぜんぶ、京都からやって来た者が中核になっている。だから、当時の日本全体の政治の格式の世界で見たら、以広も中堅の役人以上ではないでしょうね。 ―しかし以広は、平氏との一大決戦直前の元旦、源氏を守護する鶴岡八幡宮で祈祷行
元のページ