『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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108小説家の想像力を加味してみれば、路傍に無惨に傾いた石柱にさえ、遠い昔の逸勢の息遣いが鮮やかに蘇ってくるようだ。橘氏には他にも名の知られる人物たちはいた。奈良麻呂が権力を争って謀反を起こし、罪人となったことで急速に勢力を失ったものの、四位・五位の下級貴族として家系を伝え続けた。朝廷の最高機関である太政官で官庁を指揮監督する「弁官」の職員録である『弁官補任』(八木書店刊)の記録を開いてみる。嘉智子皇后が他界して四分の一世紀が経った貞観一七年(875年)には、諸兄から数えて五代目の広ひろみ相が「右少弁 従五位上」として登場。15年後の寛平二年(890年)には「左大弁 正四位上」へと出世し、同年死去の際には従三位・中納言を追贈されている。広相は菅原道真と同門の学者として漢文学や歴史学に極めて優れ、31歳で文章博士に就任。仁和三年(887年)、宇多天皇が即位した際、近臣として作成した詔文をめぐり、
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