『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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149第7章 疑わしきは「家伝」の利益に名を、斑目惟秀という。一昨年春、鹿児島大学名誉教授の五味克夫氏が自宅書斎を整理するうち「40年ぶりに出てきた」と、私に提供してくれた『橘姓斑目氏系図(増補版)』(23頁参照)のコピー。この薩摩斑目家の系図に、以広の孫・「惟基」の孫として、「惟これひで秀」という人物が記載されている。惟基の子は二人いる。渋谷家の御曹司で惟基の養子となって薩摩斑目家を開いた泰基と、弟の員かずもと基。この員基までは鹿児島大学が所蔵する『斑目家文書』の中の『橘姓斑目氏系図』に掲載されているのだが、員基の子である惟秀の名はない。系図の記載は、泰基の方は子・政泰まで(『斑目家文書』の中の『祁答院渋谷氏・斑目氏系図』では泰基の子孫は十一代下る「廣慶」まで記載)続いているが、員基の方は嫡子ではないからという形で下が切れているのだ。それが『橘姓斑目氏系図(増補版)』では員基の子として「惟秀」と書いてある。詳しく言えば、添え書きに「八郎」とあり、その弟として「孫二郎 助綱」の名もある。

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