『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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153第7章 疑わしきは「家伝」の利益にでいる。親房がそれを実現してやるに際し惟秀の主人筋である親朝に断りを入れている、といった趣きの文書である。一方では、惟秀は独立領主であるようにも受け取れるなど、さまざまな事が読み取れる文章である(詳細は次章参照)。いずれにしろこの『御み教ぎょうしょ書』が書かれた1341年の時点で、「斑目惟秀」という名の武士が東日本の側に存在していたという証拠である。次に『結城親朝注進状案』は、『御教書』から2年後、親朝が北朝に寝返るに際し、自身の勢力範囲にある武士の名を列挙して室町幕府に提出したものだ。ともに北朝へ鞍替えした武士団57人の名が並ぶ中に、斑目の名を持つ「周すおう防権ごんのかみ守惟秀」が含まれている。惟秀は、武士としてある程度の独立性を持ちながら、親朝の家来にもなっていたことがうかがえる。『注進状案』から27年後に書かれたのが『二所熊野陸奥国白河荘檀那名簿』である。形ぎょう部ぶ阿あ闍じゃ梨り明尊が熊野信仰の檀那衆として把握した白河結城氏の一族・被官35人の名をまとめたもので、斑目氏の名は第一位に「斑目周防守殿・同内房」、第二位に「斑目信濃入道殿・

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