『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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156り斑目家へ猶子となれる大覚寺皇家の一皇族信濃守則常公の……」という記述がある。④説に立った場合、いずれも極めて注目される伝承ではある。その伝承がいつごろ生まれたものかは分からないが、則常は惟秀よりも一世紀余り後を生きた人物である。想像をたくましくしてみれば、伝承が長い時代を経る中で、京都橘氏の惟秀の由来が則常のものとして重なったということがあるかもしれない。特に則常に冠された「大覚寺皇家」については、意味は不明であるものの、京都にあまたある寺の中でなぜ「大覚寺」なのか。大覚寺とは、第5章で言及したように嵯峨天皇と嘉智子皇后が暮らした嵯峨離宮から転じたものであり、京都橘氏にとっては格別にゆかりの深い寺であることを想起させる。◇ただし、以上の④の論理は京都橘氏の惟秀と白河斑目氏の惟秀が同一人物であるということを前提にしている。あくまで実証的立場を厳守する歴史学からは、その前提自体をまず疑うことになる。
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