『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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160から別系統である惟秀の斑目氏が加わって来たという見方が十分成り立つのではないか。つまり、東日本斑目家においては、祖先は家伝の通り斑目四郎であり、途中で京都橘氏の流れが加わって来たということだ。実は、『白河斑目氏系図』には「斑目四郎」と同様、「斑目惟秀」の名もない。「斑目惟秀」は他の歴史史料に登場することからして白河斑目氏の一員であることは明らかなのであるが、彼もなぜか系図に載っていない。惟秀でさえ系図から落とされてしまうのであれば、さらに約300年古い斑目四郎が忘れ去られるのは十分ありうるということか。因みに、『白河斑目氏系図』では、惟秀は時代的には「清武」「康正」「朝顕」の辺りに位置すると計算されるが、その三人の添書きにはそれぞれ「雅うたのすけ楽亮」「修しゅりのすけ理亮」「縫ぬいどのすけ殿亮」と京都朝廷の官職名が集中しているのが目立つ。京都橘氏の出身である惟秀の流れが加わったゆえのことと思わせるが、本当にそうかどうかは分からない。

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