『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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163第7章 疑わしきは「家伝」の利益に宛御教書=1341年②結城親朝注進状案=1343年③白河荘檀那名簿=1370年――となっている。惟秀が1300年の初めごろに壮年期を迎えていることを前提に年齢を考えると、①②はまだいいにしても、③ともなるとかなり厳しくなってくる。だとすれば、二人の惟秀が全くの他人としないまでも、白河斑目の惟秀の方は薩摩斑目の惟秀の子供という可能性があるかもしれない。当時、親子で同じ名前を名乗るようになることはそう珍しくないからである。ただこの場合でも、「同一人物」が「親子の関係」に変わるだけなので、京都橘氏が白河斑目氏に合流するという、血統の見立て自体はいささかも影響を受けることはない。◇
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