『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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173第8章 清水亮氏インタビュー合戦は、奥州合戦(1189年)とか壇ノ浦の戦い(1185年)といったもの以外は、数百騎単位とか、もしくは数十人単位の可能性もあるんじゃないですかね。――要するに、斑目郷の周辺に惟基一族の関係者が残っていた可能性が十分ある?子供とか、弟とか、従兄弟とか。斑目郷の一部を継承している可能性は十分に考えられる。敗者を族滅させるということになると、勝者の側もやっぱり自軍の人命とか経済面とか、いろんな意味でコストがかかります。それに徹底的に叩き潰してしまったら、その後、地元や周囲の人が従ってくれるかという問題が出る。あの政権はここまでやるのか、だったら戦う時は、そこまで覚悟を固めなければいけない。そう思わせてしまったら、大変なことになってしまう。――『結城親朝宛御教書』から約30年後の『二所熊野陸奥国白河荘檀那名簿』では、第一番目と第二番目に「斑目」の名が並んでいますよね。これは何かを意味するのでしょうか。

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