『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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188たいな感じで、いろんな国に行っていた可能性がある。そういう家なんだと書いています。『橘姓斑目氏系図』で橘以広の傍注に「京都から鎌倉に下向」と書いてあるのは、そうした橘の属性を示しているのかもしれません。この橘公業も在京武士でした。だから基本的に橘は平安時代までは拠点が京都で、いろんなところに国司とかにくっついて外に出たんじゃないでしょうか。――ほぼ同じ時期に鎌倉幕府の御家人となった橘以広・惟広父子と橘公長・公業父子。それぞれに縁ある「斑目郷」を通じた、同じ橘氏ゆえの結びつきが、オール斑目家の歴史の背後にあるような気がするのですが。最近の武士団研究では、同じ系統に属する武士団が本領経営を担当する家筋と京都で貴族社会と付き合う家筋とに役割分担をしていた。鎌倉時代になると、鎌倉で奉仕する組と、本領で本領経営をする組という分担ができる。そういう関係が、橘氏の間にもあるのかもしれません。

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