『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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227第10章 野中哲照氏インタビュー按あぜち察使である文ふんやの屋綿わた麻まろ呂らがこの鎮定に動いた際、『勇敢の俘囚三百余人を発して、賊の不意に出でて、雪を侵して襲伐し、爾にさった薩体の余よ孼げつ(=残党)六十余人を殺戮す』ということがあった。翌月の吉弥侯部小金の叙位が、これと関係していることは明らかだろう。つまり小金は、俘囚300人の指揮官的な存在だったのである。小金は、秀武からみて八代前の祖先である。秀武が自らの祖先のこのような事蹟に誇りを抱いていたとすれば、後三年合戦の第三部で義家方に付いた(官軍であろうとした)ことも首肯できる。俘囚の中でも、きわめて内民化の早かった一族なのである。」◇(閑話休題)――「小金」の先祖はそもそも、どこの人間なんですかね。私の推測では、上こうずけのくに野国(群馬県)の新田郡(太田市など)から陸奥国(宮城県など)の新田郡(宮城県登とめ米市周辺)に移住して来たと思います。初期の動きだと、国から移民に
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