『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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266⑧「橘姓斑目氏系図」の橘惟基の添書きには、宝治合戦時(1247年)には「羽州在国間」とある。惟秀からなお90年近く前。斑目郷の地頭だった惟基が周辺の斑目氏と関わりがあったと見ることができるだろう。以上のように、斑目郷が位置した秋田北部には、やたら「橘」姓が目立つのである。その中でも最も広く知られているのは橘公業だろう。その存在感や活動時期から見て、斑目郷周辺の斑目氏だけでなく、橘以広や惟広ともつながりがあったに違いないと思われる。なぜかそれを裏付ける史料は出て来ないが、それをもって関係がなかったと断じるのは早計だ。公業は治承四年(1180年)、平知盛の家人であった父・公長に従って平家を見限り、源頼朝の御家人に転じた。奥州合戦(1189年)では勲功をあげて出羽国小鹿島(現秋田県男鹿市)の地頭に補され、以後、秋田郡(現秋田県南秋田郡、潟上市、秋田市)を加えて総地頭の地位に就いた。弓達者でもあり頼朝の側近となっていたが、頼朝の死後は北

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