『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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268「公業が一族・代官を派遣して経営した秋田郡は、ほぼ現在の秋田市と男鹿市、及び南秋田郡を合わせた地域である」「本領肥前長嶋庄の成立を契機に橘一族は九州で在地領主制をしいていく。その中には秋田郡斑目郷から移住したという一族が含まれている。班目沢という小字が現在目長崎の背後にあり、その付近には中世の舞鶴館や武士の屋敷跡の存在を立証する堀内の地名もある。これらを総合すると柳田を含む太平沢が斑目郷であった公算が大きい」以上の事情を考えれば、同じ時代に同じ「斑目郷」で生きたはずの、橘公業の一族そして惟広・惟基の一族と、斑目四郎の子孫たちが無縁だったと見るのには無理があるだろう。こうして公業の存在を背景に見てみれば、第8章で紹介した『白河斑目氏系図』の冒頭近くに「橘遠保」の名があることが、単なる飾り物ではなく、なにやら意味深長なものに見えてくる。橘公業は『吾妻鏡』において橘遠保の子孫と記され、その系図は遠保の流れとして書かれることが多いのである。つまり『白河斑目氏系図』が「わが橘姓は公業由来である」と主張しているようでもある。

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