『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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281第12章 酔談「班目沢と斑目郷」勢力圏は秋田城周辺にまで達していたと見て、「斑目」の地名が地域内に実在していること大きな根拠に、秋田市東部説を唱えている。後者は、渋谷一族は秋田城周辺までは進出できておらず、一族の支配地はすべて山北三郡内におさまるとする。「斑目」の地名が秋田市東部だけに存在することについては、山北三郡にあったはずの「斑目」の地名が人の移動とともに飛んだと見る。メモ②・・・国会図書館で横手地域の郷土史家である湊寧氏が書いた『雄勝年代記』(1988年刊)という本を見つけた。そこに「『出羽路新鑑』に豊田舎紀耕は十文字西域から吉田村にかけて、是の地域を前九年役の勇将班目四郎・吉美候武忠(清原武則子弟)に拠り吉佐美処たりしならんと謂っているが、ヨサミ→ユサミはまた砂鉄を産出する土質の地帯なのであって、現に、平鹿町に砂子田、大雄村に蟹沢・和村……(中略)……などの地名は、大和沢・萩袋(増田)……(中略)……などとともに産金の痕跡を留めている。こうして見れば、平鹿郡というのは清原の精強を支えた文字通りの金鉄の地盤だったのであり……」と。班目四郎がある時期、横手周辺にいた可能性をうかがわせる記述であり、各方面に当たってみた。しかし、裏付け情報は出て来ず、詳細は分かっていない。
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