『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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54こう書いてあった。「この記事(広房1111年死亡説)には誤りがあり、殺害されたのは橘広房の郎党と源為義の郎党であって、広房本人は殺害されておらず、同年の十二月に信濃守の在任が記録に見え、翌年三月の除目で信濃守の任期を終えたと見られる」「その後も、さほどの任官がなかったか、例えば、『殿でん暦りゃく』の元永元年(1118年)十月廿六日条に信濃前司広房、『九条家歴世記録』の元永二年(1119年)二月九日条に前信濃守橘広房、と記事が見える」「なぜ、広房の死没時期に拘るかというと、以広の生年が、次項記載の年齢からみて、天永二年(1111年)より遅い可能性が大きいと思われるからです。天永二年に本当に死んでいたら、以広が長寿過ぎて、次の世代に置かねばならなくなるため、ここがもっとも大きい気懸かりでしたが、いくつかの史料でそれより遅い死亡時期が確認できました」
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