『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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56信濃国司の歴代を記録する187ページの下段中央に「元永二年(1119年)大だい掾じょう 前守橘広房」「二月九日見、三月廿七日見(法性寺殿御記)五位」とあった。宝賀氏が指摘する「『九条家歴世記録』の元永二年二月九日条」と一致するものだ。国会図書館に所蔵された多くの書籍に、当然のことのように「広房1111年死亡」と書かれているにもかかわらず、その指摘が全くの誤りであることが分かった。広房はまだ生き続けている。歴史の調査とは、なんとコワいものであろうか。広房は少なくとも1119年までは生存し、信濃国司として活動できる健康状態でいたのである。死亡時期はさらに10年後、20年後、30年後となる可能性があるということだ。であれば、以広は年代差からして広房の孫というよりも、やはり子である蓋然性が高いということになる。

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