『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
63/356

61第2章 「100%の立証は不可能」だが「広房の子」説を疑うことを止め、自然体のスタンスに戻ってみると、自ずと思い起こした力曠さんの言葉があった。「父親から、斑目家というのは大江広元と関係が深いとよく聞かされていました。私の力曠の曠も広元から取ったものだそうです」確かに、『斑目家文書』の一つである『祁け答どう院いん渋谷氏・斑目氏系図』を見ても、渋谷家から養子に入って薩摩斑目家を開いた泰基の曾孫・行広に始まって「広」の字がオンパレードとなっている。嫡流だけでも「行広」「広筭」「延広」「久広」「徳広」「広俊」「広政」「広通」「広慶」と、二百数十年間に渡って九代が連続して「広」の字を名乗っているのだ。泰基の養父・惟基の以前に遡ってみても、兄「広長」、父「惟広」、祖父「以広」と三代続いて「広」の字を通字としている。この薩摩斑目家の系統の「広」の字への明らかな拘りは、いったいなんなのか。それほ

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です