『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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66⑧ 京都の貴族社会で勝手に「橘」を名乗ることはありえず、「以」の通字を名乗る限りは、この一族と見るのが最も自然である。以広の私称の可能性については、鎌倉幕府で実際に担当した仕事の内容などからしてありえない。⑨ 広房には「1111年死亡説」があったが、それは誤りであると分かった。広房が1119年の時点でなお信濃国司として活動していたことが『九条家歴世記録』などで確認できる。⑩ 従って、以広は広房の子で、「以長・広仲・以実・以言・広言」兄弟の末弟であった蓋然性が最も高い。
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