『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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73第3章 惟基が「斑目」を名乗り始めたた鎌倉御家人である。だとするならば、それぞれの子である二人の「橘惟広」は同一人物と見るのが自然であろう。公長と以広は同じ橘氏というだけでなく、ともに頼朝の御家人として鎌倉で過ごしているのだから、付き合いがあったと見る方が自然だ。だとすれば、この公長の三男「惟広」は、素直に読めば、当時よくあることとして、以広の子・惟広が何らかの理由で公長の養子に入ったものと解釈できるだろう。逆に公長の子として生まれたのであれば「公」の字が付くと思われるのに、それが付いていないからである。ただし問題は、この系図の信憑性だ。この系図は、私がネットを検索しまくるうちに、市井の歴史研究者のHP上で見つけたものだ。国会図書館や東大史料編纂所で見られる限りの橘氏関連系図には、そのような記載はない。だから本物か偽物かが分からず、信頼性に疑問がある。そんな系図なのだが、惟広が公業から「斑目」郷を分け与えて貰ったという関係をズバリ示しているようにも見
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