『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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75第3章 惟基が「斑目」を名乗り始めた羽州在国間、雖不知其意、舎兄廣長自害時被召所帯了宝治元年(1247年)、鎌倉幕府の執権として権勢を広げる北条氏が有力御家人の三浦氏の一族を滅ぼした。その宝治合戦を受けた惟基の動向である。三浦氏に加担した惟広は殺されたと他の文書にあり、その長男の廣長と子・長高はいずれも自害したと『橘姓班目氏系図』にある。そんな状況の中で、惟基だけは出羽国に居たため、事件に通じてはおらず、所領は没収されたものの、*鎌倉幕府の内乱。執権北条氏の勢力と有力御家人・三浦氏の勢力が戦った。*北条氏はそれまでに梶原、和田、畠山氏など有力御家人の一族を次々と滅ぼしてきた。*三浦一族の約500人が自害。これにより、北条氏の独裁政治が確立した。*勝者=北条一門、安達氏、足利氏ら。敗者=三浦氏、毛利季光、宇都宮時綱、橘惟広ら*渋谷家=勝者の側にいて、鹿児島北部(祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城)の地に 地頭職を得た*橘惟広=討死*橘広長=自害*橘長高=自害*橘惟基=出羽国にいて命は助かったが、所領を没収される →鹿児島に移り、渋谷家御曹司・泰基を養子に取り、薩摩斑目家を起こす1247年宝治合戦
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