『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
79/356

77第3章 惟基が「斑目」を名乗り始めたうるかもしれない。いずれにしろ、宝治合戦の難を逃れた惟基は、鹿児島北部に勢力を広げる渋谷家との縁を頼って鹿児島に移った。渋谷家は宝治合戦の勝者としての勲功で鹿児島の祁答院・東郷・鶴田・入いりきいん来院・高たき城の地に地頭職を得ていた。鹿児島に逃れた斑目惟基は渋谷家の御曹司・泰基を養子に取って、祁答院の地の一分地頭となり、薩摩斑目家を開くことになった。◇興味深いのは、先にも少し言及した薩摩斑目家と*市来家隆氏など鹿児島の郷土史家が「薩摩斑目家」の墓ではないかと 見ている「渋谷どんの墓」(さつま町)と「切開どんの墓」(同)。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です