『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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79第3章 惟基が「斑目」を名乗り始めた公業の一族は、やがて幕府内での権力関係の変化を受け、本領であった伊予国宇和郡を事実上没収される。替地として九州の肥前国杵き島じま郡長島庄を中心に大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷などの土地を与えられ、移住した。秋田北部の土地も次第に失うにいたり、子孫は九州を本拠地とすることに。薩摩の地との関係の深さを示すように、公業が「薩摩守」を名乗り、子孫は「橘薩摩氏」と呼ばれるようになっていった。公業の流れがそんな様相にあるなか、薩摩斑目家は祁答院の地で生きていたのである。

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