『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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82武士の特徴で、古代以来の姓があるにもかかわらず、そこの土地の名前を名乗るわけです。だから惟基が斑目郷の土地を貰って、そこから家を興した場合は、その家の名として斑目を名乗る。大いにありえます。そうやって、その家は「橘斑目氏」となったはずです。――そして惟基のもう一つの添書きには「羽州在國間、雖不知其意、舎兄廣長自害時被召所帯了」とある。つまり宝治の乱、それを機に鹿児島に移り、渋谷氏から養子を取って薩摩斑目家を開いたという流れなんだろうと思えるのですが。いかにもリアルですねえ。宝治の乱では、たまたま出羽に行って留守だったんで、巻き込まれないですんだ。秋田の土地は召し上げられたけども、渋谷氏との縁があって鹿児島に移った。渋谷氏とは鎌倉で関係があったから、渋谷氏の鹿児島の領地をもらったということでしょうね。☆遠藤巌・宮城教育大学名誉教授
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