『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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92――その由来は「橘は菓くだもの子の長上にして、人の好む所なり、柯えだは霜雪を凌ぎて繁しげ茂り、葉は寒暑を経て彫しぼまず、珠玉と共に光に競い、金・銀に交りて愈々美うるわし、是を以て、汝の姓は橘宿禰を賜う」(原漢文)というものであった(『続日本紀』)。 ≲*712年*玄宗が即位し唐の絶頂期を迎えるも、楊貴妃を寵愛し安禄山の乱を招く≳――天平五年(733年)三千代は没したが、同八年その遺子葛かつらぎおう城王・佐さい為王おう兄弟が亡母の「橘氏之殊名」を継がんことを奏請して許され、橘諸兄、同佐為と名のった。諸兄は藤原武智麻呂以下四卿が相ついで亡くなったあとの政界を領導した。≲*713年*渤海国が満州・朝鮮半島北部で建国、周囲との交易で栄える≳――すなわち諸兄は同九年九月大納言、同十年正月に正三位右大臣、ついで同十五年五月従一位に昇叙し、左大臣となった。藤原大納言仲麻呂の擡頭とともにその権勢は傾き、同八年致仕し、翌九年正月失意のうちに74歳の生涯を閉じた。≲*726年*東ローマ皇帝が偶像崇拝禁止令を出し、帝国を二分する騒ぎに発展する≳
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