『橘姓斑目家の歴史 古代・中世編』
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97第5章 橘諸兄、逸勢そして嘉智子皇后前権中納言言継の二男鶴松丸が養嗣子となり、同三年四月叙爵し、同十一月元服して薄以継と名乗り、永禄六年(1563年)十一月諸光と改名した。天正十三年(1585年)十月、左衛門権佐正五位下のとき、内府秀吉折紙を謀書し諸国の牛に役銭を賦課した罪により、秀吉の命により生害させられた(『兼見卿記』)。ときに諸光39歳。これにより橘氏の嫡流薄家は断絶した。≲*1600年*イギリスがアジアの植民地経営や交易を進める東インド会社を設立≳◇昨年夏、私は橘以広・惟広のゆかりを探して京都と奈良を訪れた。京都駅に着き、ポスター広告のキャッチフレーズが目に入った。『橘氏のふるさと』――。そんな始祖・諸兄の歴史にちなんだ観光の町があることを初めて知った。京都府綴喜郡
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